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−野球を始めたのは小学校2年生ということですが、きっかけは何だったんですか?
父親が野球好きで、遊ぶといえばキャッチボールというか、小さな頃からボールを握らされていたので、それがきっかけです。実は幼稚園の頃に両親が離婚して、僕は最初、母親と兵庫に住んでいたんです。それが小学校2年生の夏休みに父親が住む京都に遊びに来て、そのまま母親の家には帰らなかった。というのも、兵庫では家の近くに野球チームがなかったんですよ。僕は野球がしたくて仕方がなかったのですが、母親の家にいては野球が出来ない。父親は少年野球チームの監督をしていましたから、京都にいれば野球が出来る。母親には悲しい思いをさせたかな、悪いなという気持ちはありましたが、野球をやりたいという気持ちは抑えることが出来なかったです。
−お父さんはどんな方なんですか?
厳しかったです。巨人の星の星一徹そのものでしたね。小学校3年生から毎日10キロは走らされていましたし、素振りも目覚まし時計をセットされて、2時間バットを振らないと家の中に入れてもらえない。大久保にモナコというバッティングセンターがあるんですが、毎日、モナコに行ってバッティング練習をするんです。行きは車で送ってもらえるんですが、帰りは走って家まで帰らないといけない。だからマシンを打ってる最中から帰りのことを思うと憂鬱だった。そんなことをよく覚えています。
−それはイチロー選手みたいに、親子でプロ野球選手を目指すという感じだったんですか?
そうです。僕自身もプロ野球選手になりたいと思っていましたが、誰よりも親父が、僕をプロ野球選手にしたかったんでしょうね。
−後に平安高校で一緒に甲子園に出ることになる川口投手(元オリックス)とは、小学校時代から同級生ですよね。
川口が同じチームに入ってきたのは小学校5年生からです。それまでも僕はずっと川口に一緒に野球をやろうって誘ってたんです。川口はあの頃から背も高かったし、ドッジボールでも凄いボールを投げてましたから。でもあいつは、なぜか野球はしないって僕の誘いを断ってました。
−そしてようやく小学校5年生からチームメイトになったんですね。
そうです。でもあの頃の川口はコントロールが良くなかったから、チームはそんなに勝てなかったですね。
―川口投手とは、その後、中学でも同じチームに所属して、高校も同じ平安に進みました。平安進学は何かきっかけがあったんですか?
京都宇治ペガサスの木村監督が平安出身で、その関係で原田監督が練習を見に来てくださりました。それで「平安で一緒に頑張ろう」と誘っていただきました。
−その頃は原田監督が就任された直後で、平安は長い低迷に苦しんでいる時でした。
あまりそういうことは知りませんでした。僕は自分で野球をやるのは好きなんですが、見るのは好きじゃない。プロ野球なども全く見ないんです。だから、平安といえばよく名前を聞くから強い学校なんだろうなと思ったぐらいで、しばらく甲子園に行っていないとか低迷してるということは知りませんでした。
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