PROFILE
三原新二郎。昭和15年7月20日広島市生。広陵高校3年の春に第30回選抜大会に出場。明治大学に進学後、電々中国で都市対抗野大会出場。昭和40年、25歳で母校・広陵高校の監督に就任。昭和42年夏、宇根投手等を擁して甲子園準優勝。翌43年は春夏連続ベスト8。昭和46年に福井高校監督に就任。51年に春夏連続出場。昭和58年から京都西高校の監督へ。京都西時代は春夏7度の甲子園に出場。平成3年に勇退したが、昨年、10年ぶりに監督に復帰した。通算の甲子園成績は20勝12敗。

秋季大会は残念でした。

そうですね。油断がありましたかな。

さて、今日は色々とお話をお伺いしたいのですが、まず私なりに調べさせて頂いた先生のプロフィールを元に話を進めさせていただきたいと思います。
先生は昭和15年に広島市にお生まれになってますが、原爆の方は大丈夫だったのですか?


あいましたよ。あの朝は確か友達の家に遊びに行っていましてね、ちょうど遊びに行こうと玄関から出ようとした時でした。でも運が良くて、私も家族も命を落とすようなことはありませんでした。まぁ多少の被害はありましたけどね。

子供時代から野球少年だったということですが、小学校の時から広陵に進もうと決めていたと聞いていますが。

そうです。やはり広島では広陵と広島商が凄い人気ですから。中学の時の1つ上に今、如水館の監督をされている迫田さんがいまして、あの人は広島商に進んだんですけれど、私は広陵に行こうと決めてましたね。

やはり広陵と広島商は物凄いライバル関係なんでしょうか?

そうです、そうです。東京の早慶戦みたいなものでね、ライバル心はお互いに強かったですね。ちょうど私が広陵に入った時に広島商が春夏連続で甲子園に出たりしてましたから、なんとか頑張って広島商を倒したいと思ってましたね。

両校の野球スタイルに違いなどはあるのですか?我々ファンがすぐに思い浮かべるのは、広島商は刀の上を裸足で歩いたりという練習方法を取り入れるなど精神野球というイメージがあるのですが。

そうですね、広陵は特訓というよりは、毎日、試合形式の練習ばかりしてましたね。実戦の中で動きを覚えていくというのか。今、考えてみれば、ああいった練習をしていたのが、指導者になってから役に立ってるのかなとは思います。

ライバルの広島商に2年の夏、決勝戦で2対3で敗れいます。この試合を少し調べてみましたら、安打数が広島商の6本に対して広陵はその倍の12本を打っている。不思議な試合だなと思ったのですが。

あの試合はね、私のチョンボで負けたんです(笑)。ずっと押して押して点が取れなくて1点リードされて9回を迎えましてね、トップだった私がツーベースで出塁したんです。そして続く井垣さんという先輩がセフティーバンドをされてね、私は一塁をセーフにせなならんと思いましてね、わざと三塁をオーバランして牽制したんです。その時に偽投をされましてね、あわてた私は滑っちゃってね、三塁へ戻れずにアウトになってしまったんですよ。それは悔しかったですよ。

その広島商は甲子園で全国制覇を達成しています。悔しさがより増されたのでは?

そうですね、悔しかったですね。我々は広島商に負けたとは思ってません。ただ私のチョンボで負けたわけですから。

その悔しさから新チームがスタートして翌年の選抜大会に出場されてます。

ええ。23年ぶりの出場でした。でも複雑な気持ちでしたね。自分の目標を達成したという喜びは当然あるんですが、もうひとつ、夏の大会に私のチョンボで負けて先輩は甲子園に行けなかったわけでしょう。自分たちの代で甲子園に行けることになって、先輩たちに悪いなという2つの気持ちがありましたね。

初戦で愛知の中京商(現中京大中京)と対戦。1対3で敗れてます。

あの時の中京商といえばそうそうたるメンバーが揃ってましたが、こっちも伝統校ですし、なんとか喰らいついていこうと思ってました。
でも負けて悔しいというよりは、23年ぶりの甲子園でしょう。戦後初ということでOBの方も喜んでくれましたし、私自身も自分の目標が達成できたということで、それだけで満足してしまったのかな〜。