広陵高校を卒業後、明治大学に進学されてます。試合の方は何年生の頃から?

1,2年の頃は公式戦には出れませんでした。レギュラーメンバーに入れそうかなというところまではいくんですが、最後で駄目になって、また入れそうかなと思うと駄目になって。そういうことを7回ほど経験したのかな。
当時、明治は2つ寮がありましてね、レギュラーと補欠に分かれてるんです。レギュラーの方の寮は食べ物が違いましてね。御飯は食べ放題だし、ステーキでもレギュラーは牛肉だけどこっちは豚肉だしね。パンの質もジャムも違いますし。そういうもの食べたさにやっていたようなもんですよ。

3年生の春に練習に出なかった時代があったと聞いていますが?

ちょうど3年生の時に新しい寮が出来ましてね、てっきりそこに入れるものだと思ってたら、入れなかったんですよ。それで自分で下宿せなならんということになってがっくりしましてね。今、ベイスターズでスカウトしてる松岡と下宿してたんですけど、春のシーズンは3回ほどしか練習に出なかったんじゃないかな。ヤケになりましてね。そしてまた練習に出るようなってから、寮に入ることが出来ました。

それで4年生からレギュラーに?

まあレギュラーといっても試合に出たり出なかったりですけどね。ちょうどその時に浪商(現大体大浪商)から住友(阪急)っていうのが入ってきましてね。尾崎で優勝した時のメンバーなんですが、これが本当はセカンドなんですが、一枝(中日)がセカンドにいましたからサードへ来て、それと競争せなあかんということになりましたから。

島岡監督の指導はやはりきつかったですか?

それはもう、きついなんてものじゃないです。先生はまだまだ若い頃でしたし、先生の前に立つとびびりましたよ。

その頃から将来は指導者になりたいと考えられてたのですか?

いや、その時は全然そんなことは考えてません。ただ広島に帰って就職しようと。それで当時の電々中国、今のNTTですがそこに入りました。社会人で3年間野球をやって、後は仕事をしようと。仕事も安定してましたし、定年までいこうという風に考えてました。

電々中国では都市対抗にも出場されてますね。

そうです。僕が入って3年目です。だから最初の計画通り辞めようと思っていた年だったので、監督に辞めたいと言いましたら「そうか、じゃあ有終の美を飾れよ」と言われて、それで電々中国としては初めての都市対抗に出ることができました。それでもう全く未練なく野球を辞めることができました。

全くですか?

ええ。あとは普通に仕事して暮らしていこうと。そう思っていたら、広陵のOB会長が私を訪ねてきまして、当時の監督だった森岡さんが原爆症でもう指導が出来ないから、監督をやってくれないかと要請されましてね。それで電々に務めてたのでは練習を見ることは出来ないものですから、辞めて先輩の会社にお世話になることになって、監督をやることになりました。