−さて,今日とくにお話を伺いたかったのは,低迷していた平安が原田監督が就任してから復活した。全国を見渡しても昔強かった古豪が衰退するというのはよくある話ですが,そこから再び上昇するというのは非常に珍しいケースだと思うんですね。その辺りの話をぜひお聞きしたい。まず,原田監督の子供時代というのはまさに平安の黄金期だったんですよね。

そうです。小学校のときに自分たちで勝手に平安のユニフォームを作ってそれを着て甲子園に応援に行きました。憧れでした。

−その憧れの平安野球部に入って,実際の印象はいかがでした?

ある程度想像はしていましたけれどやはり凄いなと思いました。2年生の秋まで毎日息が抜けなかったです。当時は今だから話せますけれど,やはり先輩から殴られたりするわけです。当時は本当にいやでいやで逃げたこともありましたよ。
授業が終わって9人ぐらいで門を飛び越えて,学校の近くだった僕の家に集まるわけです。でも夕方になってみんなと話すわけですよ。
「・・・おい,明日どうする?みんな辞めるんか?・・・」、「・・・いや,辞めへん・・・」、「・・・しゃあない。行こ・・・」。
そうしたらまたボコボコにやられるわけです。もうそんな毎日でしたね。だからあまりね,野球を教えてもらった記憶はないですね。上下関係といいますか気配り目配りの毎日でね。自分たちの代が一番上になってからですかね。野球のことをじっくりと考えられるようになったのは。

−原田監督は2年生の頃からレギュラーになられていますが,そういうことで上級生から目をつけられるということもあったわけでしょう?

ええ。僕は1年生の秋からレギュラーにならせてもらいまして2年生から3番を打つようになりました。4番が今,近江の監督をされている多賀さんでした。
それでね,フリーバッティングの順番を待っていて「よし自分の番がきた!!」って思っているとポーンと蹴られるわけですよ。後ろ行けって。やはり的になっていましたね。くそー,野球で勝負せぇ!!って悔しい思いもしましたね。

−原田監督の現役時代というとちょうど京都商の全盛期でした。夏は京都商の三連覇で最後の夏はその京都商に負けています。監督自身も苦い思い出でしょうけれど最後の大会は3試合でノーヒットでした。

僕たちの代は秋の京都で優勝。春の大会も楽勝で優勝して近畿大会でも準優勝した。それで僕らはもう甲子園に行けるものだと思い込んでいましたね。監督も甲子園に行ってから調整してやるといって夏の練習は滅茶苦茶にきつかったんです。もうフラフラでね。その状態で夏の京都大会に突入してしまった。
それとね,うちは左バッターが6人いたんですが,今カープのコーチをしている清川という左がいきなり夏に投げてきたんです。向うは清川を隠していたんですね。
それまでに京商の練習を見て,「おい,なんか左の横手が練習しとるぞ」と話していたんですが,「まあええやろ」って。それが実際にバッターボックスに立つと球は速いしカーブも凄い。打てませんでしたね。

−甲子園には出られませんでしたけれど,平安野球部で3年間を過ごして一番強く残っている思い出はなんでしょう?

やはり仲間ですね。3年間一緒に過ごした仲間は今でも付き合いがあるし,毎日のように電話もくれる。僕が監督になったときには「原田監督を応援する会」というのを作ってくれまして甲子園にも来てくれる。本当に嬉しい事ですし感謝していますね。