PROFILE
田所孝二。1960年福岡県生まれ。福知山高校時代は投手、遊撃手。主将を務めた2年秋は府大会ベスト4に進出。関西大学に進み遊撃手としてベスト9に選ばれた。日本新薬に入社後、93年から青年海外協力隊員として中米・グアテマラで野球を指導。帰国後、福知山商野球部監督に就任。99年に北部勢としては初の夏の甲子園出場を果たし1勝を挙げた。

−福岡県のお生まれなんですね?

そうです。福岡には3歳までいて、父親の転勤で兵庫の伊丹、そして福知山に引っ越しました。

−野球はいつ頃から?

小学校の4年からです。兄が結構いい選手で、兄について行って始めるというよくあるパターンです。

−福知山高校では主将で秋にはベスト4にも進まれてます。

こっち(北部)からするといい方まで行ったという感じでしたね。でも、正直あの当時は京都のレベルは低かったと思いますよ。一生懸命に頑張っていればそこまでは行けるレベルでした。大学に進んでもスターティングメンバーに京都出身の選手はほとんどいなかった。そう思うと、今は京都のレベルも上がってますよね。大学の試合でも京都の選手がたくさん出てますからね。

−大学は関西大学に進まれました。

伊丹に住んでいましたから関大は馴染みが深かったです。それに中学の時に山口高志さん(関大−阪急)がブレイクしてましたから強いというイメージがありました。

−レギュラーは何年の頃から?

2年の春からです。1年秋の大阪商大戦でノーアウト満塁の場面で代打に出されました。あの試合は総力戦で僕ぐらいしかベンチに残っていなかったんじゃなかったかな。その場面で同点タイムリーを打ちました。次が西京極での立命大戦です。立命大の監督をされている松岡さんにノーヒットノーランをされている場面で代打で出て、僕が初ヒットを打ったんです。今でも松岡さんにお会いするとあの時の事を言われますよ(笑)。そんな具合に運がよくて2年の春からはレギュラーになれました。

−そういう運を持っている選手というのは確かにいますよね。

そうですね。チャンスの時に打つ選手と打てない選手というのはありますね。

−強かった時代の関大でずっとレギュラーをされていたんですね。

いや、強くはなかったですよ。僕たちの時代は3シーズン連続で2位と優勝できそうでできなかった。8シーズンで2位が4回か5回ありました。最後の年が西京極で近大と優勝決定戦をやって、延長17回のサヨナラ負けでした。だから旧の関西六大学を知っている人には印象に残る学年だったと思います。
その試合が終わった後、西京極でクーデター騒ぎが起こって、分裂、統合があって、今の関西学生野球、関西六大学の形になりました。

−激動の時代だったんですね。

だから僕は西京極の思い出というのはたくさんあるんですよね。高校、大学、そして日本新薬に進みましたから、ずっと西京極で野球をやっている。そして今でしょう。でも振り返ってみると勝った想い出というのは少ないですね。