「お願いがあるんですけど」
 前の席に座っていたおかっぱ頭の女の子は私の方を振り返り,唐突に話しかけてきた。クリクリと丸い目をした5歳か6歳ぐらいの女の子だ。
「これを開けて貰えませんか?」
 彼女はクリクリの目で私を真っ直ぐに見つめ,魔法瓶の水筒を差し出した。その水筒は彼女の顔よりもずっと大きくて,まだ小さな彼女の手ではいくら頑張っても蓋が開かないようだった。
「うん,貸してごらん」
 魔法瓶の水筒はお茶がこぼれないように蓋がしっかりと閉められていて,私でも開けるのに少し苦労した。
「どうもありがとう」
 水筒を受け取った彼女は丁寧に頭を下げ,コップになみなみと麦茶を注いだ。彼女はまだ小さいのにきちんとした言葉使いの出来る女の子だ。お礼は言えるし,敬語の使い方も上手い。きっと親のしつけが行き届いているのだろう。そう思って彼女の周りを見渡したけれど,お父さん,お母さんらしき姿は見えなかった。
彼女は長いベンチにちょこんと1人で座っている。これが公園のベンチだったら何とも思わないけど,ここは野球場なのだ。こんな小さな女の子がたった1人で野球場なんかに来る筈がない。私はお弁当箱を広げ,せっせとお昼ご飯の準備を進めている彼女に「パパとママは?」と尋ねた。
「お父さんはあそこ」
 彼女の右手の人差し指はグラウンドへと向けられた。
「6番のユニフォームを着ているのがお父さんなの」
「へ〜え、お父さんが試合に出てるんだ。凄いね」
 背番号6番の選手は二塁ベースと三塁ベースのちょうど真ん中辺りを守っている。私は野球には全く興味がないが,そのポジションがショートであることぐらいは知っている。私はスコアボードに目をやり,ショートを守る選手の名前が葛城であることを確認した。
「葛城って名前なんだ?」
 なぜ私が名前を知っているのかが不思議だったようで,彼女は目をキョトンとさせて首を傾げている。
「うん。葛城佐知子です」
「佐知子ちゃんか。じゃ,さっちゃんだね」
 そう呼ばれるのが嬉しかったのか,さっちゃんはリンゴのように赤い頬を膨らませて照れ笑いを浮かべた。
「お父さんがお昼になったらお弁当を食べなさいって言ってたんだけど、今ってもうお昼ですか?」
 腕時計に目をやると,針は12時40分を指している。
「うん,もうお昼だよ」
「良かった。お腹が空いちゃったからお弁当を食べたいなと思ったんだけど,まだお昼になってなかったらどうしようって思って」
 さっちゃんは両手をきちんと合わせていただきますをした後,お弁当を食べ始めた。お弁当箱の中には海苔が巻かれたおにぎり2つと赤いウインナー3本が入っているが,おにぎりは俵型と三角型のちょうど中間の形をしているし,恐らくタコを形取ったと思われるウインナーもとても不思議な形をしている。さっちゃんは変な形をしたおにぎりとウインナーをとてもおいしそうに頬張った。
 「さっちゃん,ママはどこにいるの?」
さっちゃんは可愛くて,頭がよくて,とても魅力的な女の子だ。ショートを守る葛城という選手は帽子を被っていてよく顔が分からないけれど,遠めで見る限りは細長の目をしている。さっちゃんの大きくて丸い目はきっとお母さんに似たのだろう。さっちゃんに似た可愛い顔をしていて,きちんと子供をしつけて,それでいてお世辞にも上手とはいえないお弁当を作るお母さんに,私はとても興味を引かれた。
「お母さんはあそこ」
さっちゃんは口の中いっぱいにおにぎりを頬張りながら,右手の人差し指を立てた。その指先は、雲ひとつない青い空へと続いていた。