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2003年7月7日 同志社国際高校 |
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朝、ポストを開けると、新聞と一緒に一冊の冊子が入っていた。朝日新聞に頼んでおいた京都大会の選手名鑑だ。新聞よりもまず、選手名鑑のページをめくる。 選手名鑑の78ページ、同志社国際のところで手を止める。出身中学を見てみると、「バンコク日本人学校(タイ)」、「ミードジュニアハイスクール(米国)」、「サウスリバッジハイスクール(米国)」と海外の学校が目に付く。同志社国際はその校名が示すとおり、帰国子女の生徒を多く受け入れている学校だ。当然、野球部にも帰国子女の部員がいる。カタカナの学校名を見ていると、夏の大会を控え、彼らはどんな練習をしているのだろうかと興味が湧いてきた。
13時、京田辺市役所前にある田辺公園グランドに到着。同志社国際のグランドは狭く、他のクラブとの兼ね合いで、15時まではこの公園で練習。それから学校に戻り再び18時まで練習をすると松本監督から説明してもらう。 松本監督は同志社国際の先生ではない。毎日放送に勤務するテレビ放送関係者だ。数年前までは運動部に所属していて、選抜大会の取材を担当していたという。 松本監督は慶応大学時代、慶応藤沢高校のコーチをしていて、その時の友人の繋がりで同志社国際の野球部監督に就任した。テレビ放送という重労働をしながら週に4日ほど野球部の練習を見ている。 「毎日練習を見てあげられないのが選手たちに悪くて」と話してくれた。
現在の野球部員は17人だという。確か選手名鑑では20名のはずだった。 「やめてしまう子が多いんです。学校が自由な気風ですから、高校野球という気質が肌に合わないんでしょうか」 確かに練習を見ていても、強豪校とは全く違う、のんびりとした雰囲気が流れている。雑誌で元東海大相模の原監督が「3歩以上歩く時はダッシャをさせた」という話を読んだが、外野から移動する時も歩いている選手が多い。ノックのボール渡しをする女子マネージャーは私服を着ている。そして選手たちは、松本監督のことを「監督」ではなく、「松本さん」と呼んでいた。 「甲子園に出たいというよりは、ベースボールを楽しんでいるという感覚だと思います。そもそも、自分たちが出場する夏の大会が甲子園に繋がっているということを知らない子もいるんじゃないでしょうか」
ノックの打球を目に受けて、ベンチでアイシングをしていた1年生部員に話を聞いた。 その選手は父親の仕事の関係で、中学2年生までロシアにいて、日本人学校で野球を覚えたという。 「高校野球はどう?」と尋ねると、目を冷やしながら「やっぱり違いますね」と答えてくれた。 寮の掃除のために練習に遅れてきた眞野主将はタイのバンコクにいた。入部した頃は日本語がたどたどしく、奥村投手とコミニュケーションを取るのも難しかったという。
15時に学校のグランドに移り、バッティング練習が始まった。マシーンを使った打撃練習の脇で、ティーバッティングをする選手たちがいる。 ある選手の打球がとんでもない方向へと飛んでいき、隣にいた選手のすぐ傍をかすめた。「危ねぇ〜〜!!」と周りにいたみんなから笑顔がこぼれる。その笑顔を眺めながら、僕は悪くないと思った。
帰り際、ガレージまで送ってくれた松本監督と話をする。 「選手たちに野球ができる喜びを教えてあげることができたらと思っています」 松本監督は兵庫県出身。阪神大震災では家の下に下敷きとなり、5時間後にやっと救出されたという。 「あの経験がありますから。野球が出来るということは、本当に幸せなことなんだと思うんです。そのことを選手たちが分かってくれたら・・」 そう話す松本監督を見ながら、やはり悪くないと思った。7月13日、京都大会1回戦、対亀岡戦。太陽ケ丘球場で彼らのベースボールを見てみたいと思った。
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